修験道はその名の通り「道」である。
「道」とは、目標や夢へ向かう道。その行動にともなう
すべての足跡。また神仏や人としての教えであり、その
精神をも意味する。修行はこの道を探求することであり、
終わりはない。
開祖役行者の御真言に「優婆塞」という言葉がある。
これは在家信者を意味し、広義で解釈するなら、誰しもが実践し修得することが出来、そこには身分や肩書きなど存在しない。
神変大菩薩が祈り出した修験道の本尊。
青黒色の肌に火焔を背負い、忿怒の威徳をあらわすその表情で、過去・現在・未来の三世を見透し衆生を救済してくださる。
釈迦如来・千手観世音菩薩・弥勒菩薩の仮(権)りの御姿ともされる。
役行者は一千日に及ぶ祈りの末、金剛蔵王大権現を感得された。
一切の雑念を持たず、一心不乱に祈ること。「大いなる何か」に身を委ね、それと融和していく。
言葉では説明できないが、「摩訶不思議」や「奇跡(ミラクル)」と称される事象はこの祈りの賜物ではないだろうか。
山伏とは、「山に伏し野に伏して山林を抖擻する者」とある。
この「山」や「野」とは何を意味するのか。
人間である以上、完璧な存在では有り得ない。しかし、そこに近づこうと努力した過程で体得した、人としての円熟みや風格が「先達」を育て、山伏としての磨きをかける。
終わりなきこの修行をし続ける者、「道」を探求し続ける者が山伏と言える。
まさに修験道そのものを表現している言葉である。
役行者がそうであったように、人間の裏切りや欲得蠢くこの現実世界で、成すべき事の昇華のために、何が必要なのかを、揺るぎない意志を持って模索し実践して行く。
混沌とした里での「行」こそが真実を導き出すのであり、普段の暮らしの中にこそ「生きる」意味が存在するのである。
「小賢は山陰に遁し、大賢は市井に遁す」とも言う。
法衣や法具と同様、山伏の諸作法ひとつひとつにも奥深い意味が込められている。例えば、口で唱える真言(しんごん)であり、指で形作るさまざまな印(いん)である。京橋南組に古くから伝わる修験秘修集録には、「他流他門はもちろんのこと、修行未熟の先達でその器に有るまじき者には決して教えてはならない」とある。
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